政治的中立性に関する雑考

コラム

日本における主権者教育は、「政治的中立性の在り方」という問題も抱えている。
例えば、第二次世界大戦の敗戦国であるドイツ(特に西ドイツ)においては、民主主義の基盤として、学校内での政治教育が重視されてきた。1952年には、政治教育を監督する行政機関が設置された。

世界的な保革対立・学生運動の潮流が終息してから一定の時間が経った1976年には「ボイテルスバッハ・コンセンサス」という学校内での政治教育に関する合意が取りまとめられた。そして、この指針は、「圧倒の禁止の原則」「論争性の原則」「生徒志向の原則」以上3つを柱としている。

「圧倒の禁止の原則」とは、「教員は生徒の期待される見解を持って圧倒し、生徒が自らの判断を獲得するのを妨げてはならない。」と説明されるように(、授業内で政治的なテーマに関して扱う際に、教員の主張と相違する(生徒などの)意見に関して、教員がその主張を教員と相違する意見であることを理由に評価しないことが禁止されている。

また、「論争性の原則」とは、学問や政治領域において議論がある事柄に関しては、その議論の両面を取り扱わなくてはならないということである。

そして「生徒志向の原則」とは、「生徒が自らの関心・利害に基づいて効果的に政治に参加できるよう、必要な能力の獲得を促す」と説明される通り、ドイツの政治教育の目的を表すものとして解釈されている。

以上3点が遵守されていれば、例え教員が授業内で自らの政治的主張を発言することも規制されず、むしろ政治的主張を持ち、それを発言する「良い大人」として生徒の模範になることが期待されている。この点は非常に先進的であると言うことが出来るだろう。

一方で、日本においては、政治的中立性が「学校内で政治的主張を一切行わない」ことと認識されていると言っても過言ではない。この認識は18歳選挙権開始後も大きく変化することはなく、投票行動を行う際は何かしらの政治的主張に賛同若しくは反対することが前提となるにも関わらず、(一部の先進校を除いては)政治的主張に触れようとせず、単純に選挙制度の解説が主権者教育とされる事例が存在する。この事例下の生徒が、主権者として必要な能力、つまりは文部科学省や総務省が主権者教育の目標として掲げている「単に政治の仕組みについて必要な知識の習得のみならず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一員として主体的に担う力を育む」という目的のうち、前段部分しか達成できていないと指摘できるだろう。上記の教育目標が設定されつつも、実際に政治的主張を取り扱うことが余りできていない現状は、現場の教職員のみに起因するものではなく、ドイツにおける”ボイテルスバッハ・コンセンサス”の様な指針が設けられていない為に、現場の教職員がリスクヘッジとして政治的主張に一切触れない様にせざるを得ないことは容易に想像ができる。

また、この場合のリスクとしては、①学校内で政治的主張を受容することに”慣れていない”生徒の発達に対するもの ②政治的主張を行うことによる教員間での”疎外” ③政治的主張を行うことに対する保護者からのクレーム などが想定できる。従って、本来は日本においても”政治的中立性の在り方に関する指針”が設けられることが望ましい。ただ、指針の設定に向けた道筋が見えず、また生徒自身の政治的関心も従来から大きく変化してない現状を考慮すると、一概に政治的主張を授業内に盛り込むことが生徒の判断能力の向上に寄与するとは考え難い。なぜならば、生徒の政治的関心が高い状況であれば、例え教員が特定の政治的主張に偏った発言をしたとしても、それに対して批判的・懐疑的な視線を加えることは容易である。しかし、政治的関心が低い状況で(尚且つ今の日本の教育状況下において)は、教員が特定の政治的主張に偏った発言を行った場合、その発言に対して生徒は批判的論考を行うとは考え難く、その発言をそのまま内面化してしまう可能性がある。

つまり現在は、政治的関心を高めるためには、政治的主張を授業内に取り入れる必要がある一方で、現状の生徒の意識のまま政治的主張を授業内に取り入れることは前述の様なリスクがあるというジレンマに陥っているという分析が成り立つ。

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