媚びる政治と如何に向き合うか:「消費者」に堕ちるなかれ

コラム

ポストモダン論に関しては、甚だ門外漢かつ浅学の身ではあるが、哲学者であるリオタール(Jean-François Lyotard)が著作『ポストモダンの条件La condition postmoderne)』で提唱した、『大きな物語の終焉』という言説には、かつて大きな衝撃を受けた記憶がある。大きな物語とは、「特定の価値観や観念について、社会全体でそれらが共有されている状態にあると言う幻想を抱く」イデオロギーであり、冷戦構造(自由主義・共産主義間の対立)の継続こそが、換言すれば、マルクス主義というイデオロギーに基づくソビエト連邦の存続が、「大きな物語は存在しうる」という事の何よりもの証左であったと言っても過言ではないだろう。

漂流と模索を続ける世界と日本

冷戦構造の崩壊から20年余、ソビエト連邦崩壊からも間も無く20年が経過しようとしている。その20年の間に、俯瞰的に述べれば欧州では「欧州連合」という”超国家”に対する期待が高まった一方、近年ではそれに対する失意が急激に欧州全土に広まり、ある種のナショナリズムが各国の議会を席巻している。中国では、民主化の機運は抑えられるばかりか、いわゆる人工知能(AI)を用いた国民の管理と国家資本主義が今日においても継続、発展し続けている。中東や南米においても依然として強権的とも言える政権が残置している事は言うまでもない。何よりもそうした「多国間協調に基づく自由主義・民主主義の拡大」を国是としてきたアメリカの大統領が、自国第一主義に基づく主張を展開している事こそが、この世の中が大きな転換点を迎えている事の証明に他ならない。今日においては、世界を見回してみても、「多国間協調に基づく自由主義・民主主義の拡大」を旗印に、日本の安倍晋三首相がリーダーシップを発揮している状態にある。

よりミクロな視点で国内に目を向けてみても、細川政権で55年体制が崩壊したかと思えば、「1.5大政党制」の中で万年野党の座に甘んじて来た社会党(当時)が、自民党との連立を組むといういわば禁じ手を用いて政権の座についた他、新党さきがけや新進党と言った新党が真の「二大政党制」の確立を模索した先に2009年の民主党による「政権交代」が実現。ただ、併せて3年余の政権担当を経て、自民党が政権担当政権に復帰した。この間に、国内では様々な価値観や主義主張があらわとなり、”ダイバーシティ”という概念は、今日においては最早一般的になっていると言っても良いだろう。

これまで述べてきた世界と日本における出来事は、それぞれの歴史のほんの一部分ではあることは言うまでもない。それであっても、世界も日本が決して平坦ではない、そして決して予期された形の道を歩んできた訳ではない事は明らかであろう。様々な課題はより一層複雑化(多層化・領域横断化・長期化)しながら、個別に発散を続けている。俯瞰的に見ても、「自由主義」や「民主主義」がグローバル・スタンダードとなる事はなく、権威主義や宗教原理主義との対抗を今日においても続けている。そこには、(ある程度の規模の)集団で共有されうる大きな物語などは存在しない時代になったと言って良いだろう。

「統」治は最早存在しないのでは:フクヤマ-ハンティントン論争を踏まえて

フランシス・フクヤマの著作「歴史の終わり(The End of History and the Last Man」とその師とも言うべきサミュエル・P・ハンティントンの著作「文明の衝突(The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order」の間で繰り広げられた『フクヤマ-ハンティントン論争』は、これからの国家の在り方に考察を加える際に、非常に興味深い洞察を与えるものである。歴史を通した闘争の結果、民主主義に対抗し得るイデオロギーは最早存在し得ず、民主体制こそが人類による統治の最終形態であるというフクヤマの主張と、世界の主要文明間(特に非西洋文明と西洋文明の間)の衝突こそが、世界秩序に対する深刻な脅威であるというハンティントンの主張は、相剋をなすものである事は言うまでもない。

しかしながら、そうした論争の影で、国家(政府)が民衆にとって絶対的な存在でなくなった事もまた明らかであろう。従来であれば、政府が徴税権を行使して税を確保した上で、議会で予算案や法律を制定するという権力を行使する事で、「統治」は実現されてきた。この統治においては「雇用政策」や「福祉政策」の実行主体としての政府も期待されていた。その一方で、今日ではバーチャル空間においてはGAFAと呼ばれる企業群が多様なサービスを提供し、それらが抱える多くのユーザーのデータを有効なアセットとして、新たな利潤を生み出すモデルを構築している。英国のケンブリッジ・アナリティカ(CA)事件を代表例に、最早GAFAの様なプラットフォーマーにとって、国家とは十分な影響力のある存在にはなり得ていない。そうした事も背景にして、市民個々人にとって「国家」という”共同体”はもはや「共同」体たり得ないものになってしまっていると言っても決して過言ではない。

そうした中で、政府があらゆる場面において先導的に多種多様な施策を展開する「統治者としての政府」像からは脱却する時代になりつつあると言えるだろう。これからの時代において、中央政府は民間企業・組織の活動基盤の整備を目的とした種々の規制改革を図りつつ、国防・治安維持の主体を担い、教育や福祉、若者政策といった自由主義的資源分配では手が出にくい分野へ積極的に資源分配を行うという「プラットフォーマーとしての政府」像に転換する必要があるのではないだろうか。その上で、地方政府は、地方別に生起するであろう様々な政策課題に対して、制度・枠組みの面から解決を模索しようとする主体であるべきと考えている。

つまり、中央政府にせよ、地方政府にせよ、政府は「大きな物語」を唱える存在ではなく、生起を続ける様々な課題を解決する主体である必要がある。課題解決に際して、これからも政府は(徴税を通した)資源配分の主体である必要がある一方、完全な「実行主体」である必要はないだろう。具体的には民間企業やNPO、地域組織などと機動的に協働を図りながら、それらをコーディネートする立場に政 府が立つ事が求められるのではないだろうか。そうした意味で、「べてめる」という意味合いでの統治は最早存在し得ないと指摘できるだろう。

「小さな物語もどき」を生み出さない為に

ここで述べてきた様な「政府の形」を現実のものとする為に、国民(市民)と中央・地方政府が円滑かつ双方向的にコミュニケーションを図る事ができる”仕組み”を構築する重要性は論を待たない。筆者(栗本)自身は、民主体制こそが、この瞬間に考え得る「国民ー政府間のコミュニケーション」の最高形態であると言う論には概ね同意する。他方、その文脈における「民主体制」とは、既存の”それ”よりも更に高度なものを志向する必要があるだろう。

昨今の欧州におけるポピュリズム政党は、「○○を解決すれば私達は幸せになれる」「△△こそが我々の敵である」と言う”耳障りの良い”ストーリーを声高に唱え、各国の議会等々で席巻を遂げている。こうした動きがあることそのものは、私達も受け止めなければならないが、この様な「事象の(過度な)単純化に基づく意図的なミスリーディング(小さな物語もどきa)」は、「国民ー政府間のコミュニケーション」を断絶し得るだけでなく、国民の間にも溝を生みかねない危険性を孕むものである。

あるいは、政党にせよ政治家が発する「語り(=小さな物語もどきb)」にも注意を向ける必要がある。政党であれば、既存の権力者に向けたレッテル貼りや結党に際してのストーリー、政治家であれば、当人が如何に苦労を積んできたかと言うストーリーなどは、武勇伝の様で聴き心地の良いものである事は少なくない。他方、これらのストーリーは、彼ら・彼女ら自身を縛り得るものであるばかりか、その時点では支持者でない国民・市民とのコミュニケーションを阻害する要因にもなり得る。「統治機構」を構成する政党ないしは議員も、語りのストーリーばかりに注力する姿勢を厳に慎むべきではないだろうか。

そして、「分かりやすければ分かりやすい方が良いという神話(=小さな物語もどきc)」は、そうした小さな物語もどきa,bの拡散をする役割を果たしうる危険性を孕むものであると言わざるを得ない。理解や興味関心を持つことへのハードルを下げることそのものは十分に価値があることでは言うまでもない。他方、(ハードルを下げたものを受容する者自身が)そうした行動によって”削ぎ落とされた”ものへの想像力が働かせることがない限り、「分かりやすいコンテンツ」とは、ただ単に簡略化した(≒本質とはズレた)ものに過ぎない。

こうした「小さな物語もどきa,b,c」の存在に、まず国民は意識的になる必要があるだろう。今日、様々なコンテンツが、意図した形で消費される(≒小さな物語もどきに”巻き込む”)事を前提に編集され、多種多様な媒体で拡散をされている。私たちがコンテンツに向き合う際には、何かしらの編集が加わっている事に意識を向けない限り、私たちは消費者としての立場を甘受する事になる。従来、日本における現代政治とは、主権者である国民の信託に基づいて「統治」が行われてきたが、その関係性が『消費者ー生産者』の関係性へと固定化してしまえば、それは最早『主権者ー主権者の信託を受けた統治者』の関係性と、主従が逆転してしまう事に、危機感を覚えている。

その上で、私たちは政党や政治家、統治機構が「何を実行しようとしているか」「それらの目的は何か」という事を、ミクロ・マクロの視点を併せ持ちながら、知性をもって見極めていかねばならない。ここで言う知性とは、論理や知識に基づく『分析的思考』のみならず、様々な媒体が持つバイアスを所与の前提として意識しながら、或いは直接的に見えていないもの(=Unknown unknowns)に対して、『想像力』を働かせながら感覚的に処理をする『直感的思考』をも組み合わせた総合的な思考を指すものである。

何れにせよ、私たちは常に頭を働かせねばならない「究極の時代」に生きていると言っても過言ではない。私たちに媚びながら”巻き込んで”来ようとする様々なコンテンツの『単なる消費者』になるのか、はたまた『自律的な思考の持ち主』になるのか。様々な社会制度を生み出す政治と言う分野でも、その選択が問われている。

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