憲法審査会の正常化を注視

コラム

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって、世界情勢が大きく変動しています。もちろん日本においても、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づいた緊急事態宣言が発令されるなど、戦後日本が経験して来た中で最も過酷な状況に置かれているといっても過言ではありません。

読者の皆様はご承知おきの通りだと思いますが、新型インフルエンザ等特別措置法(以下:特措法)においては、例えば外出自粛についても、都道府県知事(いうまでもなく政府も)は住民に対して「要請」しかできず、何らかの強制的な手段の行使や罰則を課することはできません。結果、現在は(少なくとも政府見解としては)人との接触の8割削減が強く求められながらも、例えば地元の商店街などには多くの人が買い物に訪れるなどの状態が見られます。これは、我が国の憲法において、基本的人権の1つとして居住移転の自由が定められる一方で、緊急事態に際して基本的人権を部分的に停止し、行政府等への権力集中を時限的に認める「国家緊急権」に関する定めがない為に、生起している問題です。

日本国憲法第22条第1項
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

そして、与野党の一部や民間識者、あるいは世論には、こうした公衆衛生上の緊急事態に際して、政府や都道府県知事が国民・住民の生命を保護する為に、より強いリーダーシップ(=外出自粛を法的に制限することを可能にする)を発揮することを期待する声もあります。現に、国民民主党は、「ロックダウン(都市封鎖)法案」を検討する旨表明しています。また、各種世論調査においては、政府が緊急事態宣言を発令するタイミングを「遅かった」と評価する声が大半を占めています。無論、先ほども申し上げた通り、既存の憲法体系(≒特措法の枠内)では政府・都道府県知事は強権的な対応をとることは不可能なのですが、政府のリーダーシップに国民が期待していることのある種の現れと言えるでしょう。

こうした事柄を踏まえれば、仮に将来的にCOVID-19が一定程度の収束を見せた際には、政府の一連の対応を法的な側面からレビューすることは欠かせないと指摘できます。少なくとも、特措法において、政府・都道府県知事が強権的な対応をとることができない理由は、日本国憲法において国家緊急権の定めがないことが明らかである以上、特措法の見直し、ひいては現行憲法における国家緊急権のあり方を与野党を越えて検討することは欠かせません。

(話は少し脱線しますが、日本国憲法において国家緊急権が認められるか否かという議論について、本来は容認説・否認説・欠缺説が存在します。容認説は、現行憲法においても国家緊急権は国家の権利として保証されている(故に現行憲法の改正は必要ない)とする立場。否認説は現行憲法を頂点とする法体系において、国家緊急権は認められない(加えて、現行憲法の改正は必要ない)とする立場。欠缺説は、現行憲法を頂点とする法体系において、国家緊急権が認められていない故に、現行憲法の改正は欠かせないとする立場です。ただし、現在は容認説はアカデミアにおける支持はほぼ存在しません。従って、国家緊急権を認めるか否かという議論がそのまま護憲改憲というイデオロギー論争に直結しかねない状況があります。)

筆者自身は、中長期的に憲法に国家緊急権についての条文が加えられる(=国会発議と国民投票をクリアすれば)ことを前提に、特措法改正による部分的な人権制約は止むを得ないと考えています。ただ、いずれにせよ、憲法の議論を骨抜きにして、特措法改正の議論を行うことは、法治国家の要諦をなし崩しにするものです。自民党をはじめとする与党も、立憲民主党・国民民主党や日本維新の会をはじめとする野党も、憲法審査会の場外でのプロレスに固執せず、憲法審査会の場で正面から論戦を行うことを心の底から期待します。

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